1889年 |
東京・京橋に生まれる(本名:義三) |
1905年 |
梶田半古の門に入り、塾頭の小林古径に指導を受ける |
1911年 |
この年から約5年間、逓信省貯金局統計課に勤務しポスターなどを描く仕事に従事 |
1914年 |
半古没後、改めて古径に師事 |
1917年 |
この年より<土牛>の雅号を使用 |
1920年 |
古径の画室に共に住み、以後長い研鑚時代に入る。元院体画はもとよりイタリア・ルネサンスからセザンヌまで西洋絵画に関する勉強を重ね、土牛芸術の堅固でスケールの大きい基礎を作る |
1927年 |
古径の紹介で速水御舟の研究会で教えを受ける。
第14回院展に「胡瓜畑」(東京国立近代美術館倉)が初入選38才の遅い出発であったが、以後毎年入選を続ける |
1932年 |
日本美術院同人に推挙。
永年の蓄積と、物事に対する執拗さと誠実さ、東京人の感覚で画才は磨かれ、やがて近代的写実を踏まえた高潔な象徴世界を生み出していった。 |
1935年 |
帝国美術学校教授に就任 |
1936年 |
改組第1回帝展に出品「鴨」が満場一致で推奨第1位で政府買上げとなる。 |
1944年 |
塔鏡美術学校講師を務める |
1947年 |
帝国芸術院(現日本芸術院)会員に就任 |
1950年 |
武蔵野美術大学教授となる(〜1966) |
1958年 |
日本美術院監事・評議員に就任 |
1959年 |
日本美術院理事となり、第44回院展に戦後の日本画の最高傑作といわれる「鳴門」(山種美術館蔵)を発表 |
1962年 |
文化勲章を受章。併せて文化功労者となる。 |
1978年 |
日本美術院理事長に就任(〜1990) |
1980年 |
東京都名誉都民の称号を贈られる。 |
1990年 |
長野県南佐久郡八ケ穂村に奥村土牛記念美術館が開館。
東京にて逝去。享年101歳 |