1905年 |
5月23日、石川県能美郡末佐美村字松崎(現小松市松崎町)に生まれる。 |
1920年 |
15歳 画家を志して小松中学校を中退、神戸に出る。 |
1922年 |
17歳 上京し、川端画学校に通い、藤島武二らの指導を受ける。 |
1927年 |
22歳
第14回二科展で《白き壺の花》が初入選。以後、入選を重ねる。 |
1928年 |
23歳
遠藤文枝と結婚。 |
1932年 |
27歳
二科展会友に推挙される。
第4回新美術家協会展に《レヴイユーの女達》などを出品。 |
1936年 |
31歳
岸田國士の小説「雙面神」(全140回)の挿絵を描く。
二科会会員に推挙される。 |
1938年 |
33歳
渡欧し、パリのアカデミー・ランソンに籍を置く。(1939年帰国) |
1940年 |
35歳
二科展に滞欧作を特別陳列する。 |
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陸軍省嘱託として戦争記録画制作のため、中国に赴く。
第3回朱玄会展に《エトルタ風景》《少女像》など、滞欧作を出品。 |
1942年 |
37歳
戦争記録画制作のため、南方(タイ・マレーなど)に従軍。
第29回二科展に《マライの子供》ほかを出品。
12月、第1回大東亜戦争美術展覧会で《山下、パーシバル両司令官会見図》《香 港ニコルソン附近の激戦》が特別陳列される |
1943年 |
38歳
4月、《山下、パーシバル両司令官会見図》が帝国芸術院賞を受賞。
9月、初の著書『宮本三郎南方従軍画集』が刊行される。
第2回大東亜戦争美術展で《海軍落下傘部隊メナド奇襲》などが展示される。 |
1944年 |
39歳
《海軍落下傘部隊メナド奇襲》に対し、朝日文化賞が贈られる。
7月、石川県小松市に疎開。 |
1946年 |
41歳
金澤美術工藝専門学校(現・金沢美術工芸大学)油絵科講師に就任。
壁画《日本の四季》(6面)を完成する。 |
1947年 |
42歳
4月、旧二科会会員の熊谷守一、田村孝之介ら9名と第二紀会を創立。 |
1948年
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43歳 2月、金沢美術工芸専門学校教授に就任。 |
1950年 |
45歳
5月、金沢美術工芸専門学校教授を辞任。 |
1952年 |
47歳
再渡欧。イタリア、フランス、スペイン、ギリシアなどで制作。 |
1953年 |
48歳
帰国後の4月、多摩美術大学絵画科教授に就任。 |
1955年 |
50歳
東京教育大学教育学部芸術科の非常勤講師に就任。(1964年3月まで) |
1957年 |
52歳
安井賞の選考委員に就任。(1974年まで務める) |
1958年 |
53歳
4月、日本美術家連盟理事長に就任。(翌年、社団法人化) |
1966年 |
61歳
日本芸術院会員となる。3月、多摩美術大学教授を辞任。
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1971年 |
66歳
7月、金沢美術工芸大学名誉教授に就任。 |
1973年 |
68歳
胃の手術のために入院、手術を受ける。 |
1974年 |
69歳
10月13日、逝去。
遺作《假眠》を二紀展に出品。
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